竹内流の歴史


竹内流は日本の武道史上最古の柔術と云われるのは、流祖の竹内久盛が美作琲和郷三之宮に て天文元年(一五三二)六月二十四日に愛宕の山伏から授けられた記録に由来するからである。 

竹内流の始まりの記録とは竹内家の伝記や津山森藩の作陽誌の記述である。塀和の鶴田城主の 杉山備中守為就の嫡子竹内久盛は一ノ瀬城の城主であった。

当時二九才の久盛が三之宮境内に 小屋を掛け剣術の修業の山籠を初めてから六日を経た愛宕社大祭日の水無月二十四日子の刻であった。

突如山伏が現れ久盛に「一つ技を授けん」と云う。久盛は仕合を懇望して木刀で打込 んだが山伏は無刀で苦も無く久盛を膝下に組敷いて「凡そ敵に向かいて速やかに殺生降伏をな すこれを兵法と云う今その術を示さん」と云いて久盛の木刀を取り「長きに益なし」と中程よ り折って小脇差とし、久盛に渡し自らは檻の枝を取りて「これを帯せば小具足なり」と云いて、 小具足で戦う組討の術を伝えた。次に太刀にて打ち来る敵を素手で制する捕手の術五ヶ条を伝 授し、最後に葛蔓を採って武者揚の術七ヶ条を授けた。

夜明けの頃に「何時目付手内油断無様 に致すべき事」と言い残して去ったと記せられている。常より愛宕神を信仰する久盛は山伏を 愛宕神の化身と信じて、無刀にて敵を捕える術を神伝捕手と称し、小具足の技を小具足腰之廻 と名付け、武者搦めの術を迅縄と号した。敵を揚めて人斬らずと云う、戦国時代に他に類を見 ない自他共存の法術を「捕手の法」として流儀の精神としたのである。

山伏から伝授された日 を創流の日として六月二十四日は特別な日とされている。久勝、久吉三代に渡り数百の技が編 み出された。

久勝は後水尾天皇から久吉は霊元天皇から日下捕手開山の称号を賜り全国に流名 が知れ渡り多くの門人が出来た。

江戸期には全国各地に広まったが多くは明治以降に伝承が絶え、現在では宗家、相伝家の他には備中地方に伝わった一系統のみが残っておりこれを現在では備中伝(びっちゅうでん)と称している。

なお備中伝という呼称は美作の竹内家の系統と区別するため近年になって使用されるようになったもので元来は単に「竹内流」と称していた。